右サイドの支配者こと、カフー。
ブラジル代表はもちろん、ローマやミランでの大活躍を覚えている方は多いでしょう。
そんなカフーの背番号を歴代で紹介します。
2番の印象が強いですが、過去には違う番号も使っていましたよ。
【所属クラブ】
1990-1994 | サンパウロ | 2,8,10,11等 |
1995 | レアル・サラゴサ | 3等 |
ジュヴェントゥージ | – | |
1995-1997 | パルメイラス | 2 |
1997-2003 | ASローマ | 2 |
2003-2008 | ACミラン | 2 |
【ブラジル代表】
1991 | コパ・アメリカ | 13 |
1993 | コパ・アメリカ | 2 |
1994 | ワールドカップ | 14 |
1997 | コパ・アメリカ | 2 |
コンフェデレーションズカップ | 2 | |
1998 | ワールドカップ | 2 |
1999 | コパ・アメリカ | 2 |
2002 | ワールドカップ | 2 |
2006 | ワールドカップ | 2 |
カフーの背番号を歴代で紹介!【クラブ編】
サンパウロ【1990-1994】
1990-1994 | サンパウロ | 2,8,10,11等 |
カフーは18歳で地元サンパウロFCに入団。
2年後の1990年よりトップチームにデビューしています。
カフーとサンパウロと言えば、1992年と1993年のトヨタカップ連覇。
既にスタメンで主力選手ではありましたが…覚えている方は少ないかと思います。
この頃はまだ背番号は固定されておらず、スタメンに1~11までを割り振る形式でした。
そのため、カフーも10番や11番などの珍しい番号を付けていたことも。
他には2番や8番などの記録が残っているようです。
こちらの動画では10番を付けてプレーしています。
そして、1992年のトヨタカップでは11番を付けてプレーしていましたね。
レアル・サラゴサ【1995】
1995 | レアル・サラゴサ | 3等 |
ワールドカップでの活躍もあり、1995年1月にスペインのレアル・サラゴサに移籍。
1994-1995シーズンの冬の移籍期間ということになりますね。
レアル・サラゴサでは左サイドバックとしての起用も多く…初の海外挑戦ということもあってなのか…スペインサッカーに合わなかったのか…今一つな結果に。
そのためシーズンオフで退団となり、わずか16試合の出場に留まっています。
この年のラ・リーガもまだ背番号は固定されていなかったため、スタメンに1~11を割り当てる方式。
カフーは3番などでプレーしていたようです。
ジュヴェントゥージ【1995】
1995 | ジュヴェントゥージ | – |
母国復帰ということで、1995年7月5日にジュヴェントゥージに加入。
しかし…7月21日にはパウメイラスに移籍しており、ジュヴェントゥージではわずか2試合?となっているようですね。
この移籍は果たしてなんだったのか…色々と調べてみましたが詳細はわかりませんでした。
背番号も不明となっています。
パルメイラス【1995-1997】
1995-1997 | パルメイラス | 2 |
1995年7月21日にパルメイラスに加入。
1995シーズンの途中から1997シーズンの途中まで、約2年間プレーしています。
パルメイラスでは2年間で35試合に出場。
キャプテンも務めていました。
背番号は代名詞とも言える2番ですね。
ASローマ【1997-2003】
1997-2003 | ASローマ | 2 |
1997年7月に再びの海外挑戦として、イタリアセリエAのASローマに加入。
ローマでは18年ぶりとなるリーグ優勝、スクデット獲得に貢献。
この2000-2001シーズンのスクデットと言えば、中田英寿選手が在籍していたこともあり日本人にも馴染み深いところです。
主に右サイドバックの主力として6シーズンに渡り活躍しました。
背番号は入団から退団まで、ずっと代名詞とも言える2番ですね。
ACミラン【2003-2008】
2003-2008 | ACミラン | 2 |
2002-2003シーズン限りでローマを退団し、横浜F・マリノスに入団…と伝えられていたもののACミランに加入。
これは既にマリノス入団が決まっていたため、ミランがマリノスに違約金を払うことで実現した移籍だったようです。
ミラン入団後も右サイドバックの主力として活躍し、2006-2007シーズンには悲願のチャンピオンズリーグ制覇を達成。
2007-2008シーズン限りで現役を退いています。
ミランでも加入から退団まで、2番を使い続けていますね。
カフーの背番号を歴代で紹介!【ブラジル代表編】
コパ・アメリカ【1991】
1991 | コパ・アメリカ | 13 |
カフーのブラジル代表デビューは1990年9月の親善試合スペイン戦です。
そのまま1991年のコパ・アメリカにもメンバー入りし、7試合中3試合に出場しました。
21歳として期待の若手右サイドバックといった状態がこの大会です。
この大会では13番を付けてプレーしました。
コパ・アメリカ【1993】
1993 | コパ・アメリカ | 2 |
続く1993年のコパ・アメリカにも招集。
この大会では主力として全4試合にフル出場しています。
背番号も2番となっていますよ。
PK戦で敗退となった準々決勝のアルゼンチン戦のハイライトがこちら。
ワールドカップ【1994】
1994 | ワールドカップ | 14 |
続く1994年のワールドカップでは、ブラジル代表本来の右サイドバックとも言うべきジョルジーニョが戻ってきたために、控えという立ち位置でした。
7試合中3試合に出場し、その3試合ともカフーは途中出場でしたね。
しかし決勝ではジョルジーニョの故障もあり、前半のうちから出場ししっかりと優勝に貢献。
優勝メンバーの1人となっています。
ジョルジーニョが2番を付けたため、この大会では14番となっています。
ほとんどの方がバッジョのPK失敗しか覚えていないでしょうが、決勝のイタリア戦のハイライトがこちら。
コパ・アメリカ【1997】
1997 | コパ・アメリカ | 2 |
続く1995年のコパ・アメリカには招集されず。
1997年のコパ・アメリカにはジョルジーニョの世代交代と言うこともあり、右サイドバックのレギュラーとして代表に復帰しています。
この大会では6試合中5試合に出場し、1アシストを記録。
ブラジル代表の大会優勝に貢献しています。
この大会から背番号は再び2番を付けてプレーしています。
決勝のボリビア戦のハイライトがこちら。
コンフェデレーションズカップ【1997】
1997 | コンフェデレーションズカップ | 2 |
同年のコンフェデレーションズカップにも招集。
5試合中3試合に出場し、ブラジル代表の優勝に貢献しています。
この大会でも背番号は2番です。
ロナウドばかりですが…決勝のオーストラリア戦のハイライトがこちら。
ワールドカップ【1998】
1998 | ワールドカップ | 2 |
続く1998年のフランスワールドカップにも招集。
イエローカードの累積による出場停止の1試合を除く、6試合にフル出場しています。
決勝でフランスに敗れ…チームは惜しくも準優勝となった大会ですね。
この大会でも背番号は2番です。
そんな決勝のフランス戦のハイライトがこちら。
コパ・アメリカ【1999】
1999 | コパ・アメリカ | 2 |
続く1999年のコパ・アメリカでは、ドゥンガから受け継ぐ形でキャプテンを務めています。
これ以降長らくブラジル代表のキャプテンを務めることになりますね。
6試合中5試合に出場し、ブラジル代表の優勝に貢献。
この大会でも、もちろん背番号は2番です。
決勝のウルグアイ戦のハイライト…にはほとんど映っていませんが、キャプテンとして優勝カップを掲げるシーンが映っているのがこちら。
ワールドカップ【2002】
2002 | ワールドカップ | 2 |
続く1999年のコンフェデレーションズカップには招集外。
2001年のコンフェデレーションズカップも招集外、更には2001年のコパ・アメリカも招集外となっています。
しかし2002年の日韓ワールドカップには、7試合全てにフル出場。
キャプテンとしてチームの優勝に貢献しています。
背番号はもちろん2番です。
決勝ドイツ戦のハイライトですが…ほぼ映っていません(サイドバックの辛いところ?)が優勝カップを掲げるシーンが映っていますよ。
ワールドカップ【2006】
2006 | ワールドカップ | 2 |
続く2003年のコンフェデレーションズカップ、2004年のコパ・アメリカ、更には2005年のコンフェデレーションズカップは招集外に。
2006年のドイツワールドカップでは5試合中4試合に出場しています。
チームは準々決勝でフランスに敗れ姿を消しましたが、この大会でもキャプテンとしてチームをまとめる存在でしたね。
しかしこの大会では既に36歳となっていたこと、あまり機能しなかったことから戦犯という扱いも受けています。
背番号はもちろん2番を付けてプレー。
この大会を最後にブラジル代表には招集されていませんね。
アシストを記録したガーナ戦のハイライトです。
https://youtu.be/DayU60WTOrM
まとめ
ということで今回の記事のまとめです。
カフーの背番号をクラブと代表でそれぞれ紹介
2番が多いがブラジル時代は10番も
右サイドの職人として、こだわりの背番号2でしたね。
左のロベルト・カルロスと共に、この頃のブラジル代表の両サイドは凄かった…。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。