元ブラジル代表のフェノーメノ、ロナウド。
監督に「戦術はロナウド」とも言わせた、まさに怪物クラスの選手でした。
そんなロナウドの背番号を歴代で紹介します。
9番の印象が強いですが、他の番号を使っていたこともありますよ、
【所属クラブ】
1993-1994 | クルゼイロ | 9 |
1994-1996 | PSV | 9 |
1996-1997 | バルセロナ | 9 |
1997-1998 | インテル・ミラノ | 10 |
1998-2002 | 9 | |
2002-2003 | レアル・マドリード | 11 |
2003-2007 | 9 | |
2007-2008 | ACミラン | 99 |
2009-2011 | コリンチャンス | 9 |
【ブラジル代表】
1994 | ワールドカップ | 20 |
1995 | コパ・アメリカ | 20 |
1996 | オリンピック(U-23) | 18 |
1997 | コパ・アメリカ | 9 |
コンフェデレーションズカップ | 9 | |
1998 | ワールドカップ | 9 |
1999 | コパ・アメリカ | 9 |
2002 | ワールドカップ | 9 |
2006 | ワールドカップ | 9 |
ロナウドの背番号を歴代で紹介!【クラブ編】
クルゼイロ【1993-1994】
1993-1994 | クルゼイロ | 9 |
ロナウドは地元のサンクリストヴァンというクラブのユース出身です。
16歳の時に強豪クルゼイロに加入しプロとしてのキャリアをスタートさせていますね。
この頃から既に怪物の片鱗を見せており、ブラジル全国選手権では13試合12得点を記録。
16歳、17歳という年齢ながらチームのエースとしての活躍をみせています。
ちなみにこのシーズンにはプレシーズンマッチのジュビロ磐田戦のため来日。
東京ドームで行われた試合でハットトリックを記録しています。
この頃は恐らく背番号固定制度前だと思いますが…基本的に9番を付けてプレーしていたようです。
そんな貴重なクルゼイロ時代…と言うか、ジュビロ磐田戦の映像はこちらです。
PSV【1994-1996】
1994-1996 | PSV | 9 |
クルゼイロでの活躍があり、1994-1995シーズンにはオランダの強豪PSVへ移籍。
1年目から30得点を記録し、2シーズンで57試合55得点という圧倒的な成績を記録しています。
PSVでも背番号は9番を付けておりましたが、プレシーズンマッチなどでは14番や15番を使ったこともあるようです。
そんなPSV時代のプレー映像をどうぞ。
バルセロナ【1996-1997】
1996-1997 | バルセロナ | 9 |
PSVでの活躍もあり、1996-1997シーズンはバルセロナに移籍。
ここでもリーグ37試合で34得点という圧倒的な成績を残しています。
60mにも渡るドリブル突破からのゴールはまさにこのシーズンのハイライト。
ボビー・ロブソン監督の「私の戦術はロナウドだ」はあまりにも有名になりました。
わずか1シーズンの在籍となりましたが、強烈なインパクトを残したロナウドは9番を付けてプレーしていましたね。
そんなバルセロナ時代のプレー映像をどうぞ。
インテル・ミラノ【1997-2002】
1997-1998 | インテル・ミラノ | 10 |
1998-2002 | 9 |
1997-1998シーズンを前にインテル・ミラノに移籍。
バルセロナとの契約更新をしたものの…本人の意思とは関係無いところでの売却だった…と言われていますね。
契約更新をしたので、本人はバルセロナに残る気満々だったにもかかわらず…と後々語っています。
インテルでも1年目から25ゴールを記録し、史上最年少となるバロンドールの受賞や2年連続のFIFA最優秀選手賞を受賞。
超常現象を表すイル・フェノーメノという名がマスコミから付けられることに。
そんなインテル1年目は、今までの9番ではなく10番を選択。
これは恐らくイバン・サモラーノが9番を付けていたから…かと思われます。
しかし2年目となる1998-1999シーズンにはボローニャからロベルト・バッジョが加入。
そのため10番はバッジョに、9番はロナウドに与えられることになりました。
9番を剥奪されたサモラーノがひねり出した「1+8」はあまりにも有名ですね。
1999年には右ひざ靱帯断裂という大怪我のため、長期の離脱を経験。
最初の怪我から復帰後、わずか7分で再び同じ個所を負傷するという形でほぼ2シーズンを棒に振りました。
そんなインテル時代のプレー映像がこちら。
バッジョとロナウドのコンビをもっと見たかった方は多いでしょう。
レアル・マドリード【2003-2007】
2002-2003 | レアル・マドリード | 11 |
2003-2007 | 9 |
2002-2003シーズンを前にレアル・マドリードへ移籍。
長期離脱にも関わらず、辛抱強く復帰を待ち続けたインテルのファンとモラッティ会長としては…非常に辛い出来事だったでしょう。
この後のミランへの移籍も含めて、ファンは「裏切者」と今でも恨んでいる方も多いようです。
ちなみにそんな背景には、当時のインテルの監督であったエクトル・クーペルとの確執や、レアルにいる同胞ロベルト・カルロスの存在があったと言われています。
レアル移籍初年度の背番号は11番。
これは9番はフェルナンド・モリエンテスが、10番はルイス・フィーゴが付けていたためでしょう。
翌2003-2004シーズンからはモリエンテスの移籍もあり、背番号を9番に変更しています。
そんなレアル・マドリード時代のプレー映像がこちらです。
ACミラン【2007-2008】
2007-2008 | ACミラン | 99 |
2006-2007シーズンにファビオ・カペッロが監督に就任。
またファン・ニステルローイの加入もあり構想外になったため、2006-2007シーズンの冬の中断期間にACミランに移籍しています。
ミランとしても昨シーズン終了後にチェルシーに移籍した、アンドリー・シェフチェンコに代わるストライカーを探していた状態でしたね。
ちなみにシーズン途中、冬の移籍期間だったために…レアルでチャンピオンズリーグに出場していたロナウドは、ミランではチャンピオンズリーグに出場出来ませんでした。
翌2007-2008シーズン終了までの、1年半に渡りミランでプレーしています。
ACミランでの背番号は99番です。
これはもちろん9番をフィリッポ・インザーギが付けていたため。
ちなみに10番はセードルフが、11番はジラルディーノが付けており空いていませんでした。
そんなミラン時代のプレー映像がこちらです。
コリンチャンス【2009-2010】
2009-2011 | コリンチャンス | 9 |
2007-2008シーズン終了と共にロナウドはミランを契約満了となり退団。
2008年末に母国ブラジルのコリンチャンスに加入しています。
ブラジルは欧州と違い、日本のように年をまたがないシーズンですね。
背番号は9番となり、2シーズンに渡ってプレーしています。
2011年シーズンで引退する予定でしたが、2月の段階で甲状腺の病気もあり引退を表明。
2011年シーズンはシーズン前のコパ・リベルタドーレスの2試合のみの出場となりました。
そんなコリンチャンス時代のプレー映像がこちらです。
ロナウドの背番号を歴代で紹介!【ブラジル代表編】
ワールドカップ【1994】
1994 | ワールドカップ | 20 |
ブラジル代表デビューは1994年3月の親善試合、アルゼンチン戦です。
6月に始まったアメリカワールドカップにもメンバー入りし、チーム最年少の存在となりました。
優勝したこの年のワールドカップですが、ロナウドに出場機会は訪れず…バックアップメンバーとしてチームを支える形になりましたね。
当時のブラジル代表のエースと言えば、ロマーリオでした。
この大会での背番号は20番ですね。
ロナウドは出場していないですが、当時のブラジル代表のハイライトがこちらです。
コパ・アメリカ【1995】
1995 | コパ・アメリカ | 20 |
続く1995年のコパ・アメリカにも選出。
今回は出場機会があったものの、初戦のエクアドル戦の残り5分のみという…バックアップメンバーという形は変わらずでしたね。
この大会でも背番号は20番です。
唯一出場したエクアドル戦がこちらです(最後の方に少し映っています)
コパ・アメリカ【1997】
1997 | コパ・アメリカ | 9 |
続く1997年のコパ・アメリカでは全6試合に出場し優勝に貢献。
ロマーリオと2トップを組み、自身も5得点を挙げています。
この大会から背番号は9番となっています。
決勝のボリビア戦のハイライトです。
コンフェデレーションズカップ【1997】
1997 | コンフェデレーションズカップ | 9 |
同年のコンフェデレーションズカップにも出場し、全5試合に出場し優勝に貢献。
決勝ではハットトリックの活躍を見せています。
この大会でも基本的にロマーリオと2トップを組み、決勝のオーストラリア戦では両者がハットトリックでした。
この大会でも背番号は9番を付けています。
ワールドカップ【1998】
1998 | ワールドカップ | 9 |
続く1998年のフランスワールドカップでも、ロマーリオとの2トップが期待されたものの…大会前にロマーリオが負傷で離脱。
結局大会に間に合わずに、ロナウドがエースの責を担うことになりました。
プレッシャーが大きかったためか…決勝前日に胃痙攣をおこし病院に運ばれたエピソードは有名ですね。
なんとか決勝戦にも出場したものの…良いプレーが出来ずにチームも敗退し準優勝という結果に。
しかしそれでもこの大会のMVPに選出されています。
この大会でも背番号は9番を付けてプレーしていますよ。
2得点を挙げたチリ戦のハイライトがコチラです。
コパ・アメリカ【1999】
1999 | コパ・アメリカ | 9 |
続く1999年のコパ・アメリカでもエースとして、全6試合に出場。
ロナウド自身も5ゴールを挙げエースとしての役割を果たし、優勝に貢献しています。
この大会でも背番号は9番を付けてプレーしています。
ワールドカップ【2002】
2002 | ワールドカップ | 9 |
ロナウジーニョの大会となった1999年のコンフェデには選出されず、続く2001年のコンフェデとコパ・アメリカは怪我で長期離脱中でした。
2002年の日韓ワールドカップの前に復帰し、リバウド、ロナウジーニョと共に3Rと呼ばれる破壊力抜群の攻撃陣を牽引。
全7試合に出場し8得点で得点王に輝き、ブラジルの優勝に貢献しています。
この大会でも背番号は9番を付けてプレーしていますよ。
ワールドカップ【2006】
2006 | ワールドカップ | 9 |
続く2003年のコンフェデには選出されず、2004年のコパ・アメリカも選出されませんでした。
2005年のコンフェデも選出されていませんね。
しかしドイツワールドカップの南米予選では継続して呼ばれており、本戦もメンバー入りを果たしています。
ロナウジーニョ、カカ、アドリアーノと、魔法のカルテットと呼ばれた大会ですね。
全5試合に出場し3得点を挙げていますが、チームは準々決勝でフランスに敗れて敗退しています。
グループステージでは日本代表とも対戦したので、記憶している方も多いでしょう。
この大会でも背番号は9番を付けてプレーしていますよ。
そんな日本代表戦のハイライトです。
川口能活選手のファインセーブ連発、玉田圭司選手の先制点と…もしやブラジルに勝てるのでは?と思ったものの、それを打ち砕く後半の強さでしたね。
引退試合【2011】
2006年以降はドゥンガ監督の構想から外れ、以後の代表招集はありませんでした。
しかし引退後の2011年6月の親善試合のルーマニア戦にて引退試合として招集され、9番を付けて15分ほどプレーしています。
実に惜しいシュートがあったものの…キーパーのファインセーブにより最後の得点とはなりませんでした。
まとめ
ということで今回の記事のまとめです。
ロナウドの背番号をクラブと代表でそれぞれ紹介
9番が多いが、10番や11番も使用
爆発的なスピードと、その速度を殺さないテクニックの高さが持ち味の選手でした。
怪我に泣かされた選手とも言えますが…本当に怪物でしたね。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。