ピントゥリッキオこと、アレッサンドロ・デル・ピエロ。
イタリアのファンタジスタの系譜とも言われる名選手ですよね。
そんなデル・ピエロの背番号を歴代で紹介します。
10番の印象が強いですが、他の番号を使っていたこともありますよ。
【所属クラブ】
1991-1993 | カルチョ・パドヴァ | – |
1993-1995 | ユヴェントス | 9,15,16等 |
1995-2012 | 10 | |
2012-2014 | シドニーFC | 10 |
2014 | デリー・ディナモスFC | 10 |
【イタリア代表】
1991 | U-17ワールドカップ | 7 |
1996 | ユーロ | 14 |
1998 | ワールドカップ | 10 |
2000 | ユーロ | 10 |
2002 | ワールドカップ | 7 |
2004 | ユーロ | 7 |
2006 | ワールドカップ | 7 |
2008 | ユーロ | 7 |
Contents
デル・ピエロの背番号を歴代で紹介!【クラブ編】
カルチョ・パドヴァ【1991-1993】
1991-1993 | カルチョ・パドヴァ | – |
デル・ピエロのキャリアは1991-1992シーズン、セリエBのカルチョ・パドヴァから始まっています。
この頃はまだ背番号が固定されておらず、スタメンに1~11までを割り振っていた形でした。
そのため、試合によって付ける番号が違う…なんてことも多々あった時代ですね。
そんな貴重なパドヴァ時代映像がこちらです。
この試合では途中出場のため、16番を付けています。
ユヴェントス【1993-2012】
1993-1995 | ユヴェントス | 9,15,16等 |
1995-2012 | 10 |
1993-1994シーズンの前にユヴェントスへ移籍。
当初はロベルト・バッジョが在籍していたこともあり、途中出場が多く15番や16番が多かったようです。
セリエAの背番号が固定制となるのは1995-1996シーズンから。
シーズン前にバッジョがACミランに移籍したこともあり、デル・ピエロの背番号は10番になりました。
そしてこのまま移籍する2012年まで10番を付け続けています。
そんなユヴェントス時代のプレー映像をどうぞ。
シドニーFC【2012-2014】
2012-2014 | シドニーFC | 10 |
ユヴェントスで引退するかと思われていたものの…2011-2012シーズン終了後にユヴェントスを退団。
9月にはオーストラリアのシドニーFCへの移籍となりました。
シドニーFCでも背番号は代名詞とも言える10番を付けています。
ちなみにこの移籍により、オーストラリアAリーグ史上最高年俸の選手となったことも報じられましたね。
そんなシドニーFC時代のプレー映像をどうぞ。
デリー・ディナモスFC【2014】
2014 | デリー・ディナモスFC | 10 |
そして2014年4月にシドニーFCを退団し、8月にインド・スーパーリーグのデリー・ディナモスFCに移籍。
インド・スーパーリーグのアンバサダーにも就任しています。
背番号はもちろん10番で、このシーズンで現役引退となりました。
そんなデリー・ディナモスFC時代のプレー映像がこちら。
デル・ピエロの背番号を歴代で紹介!【イタリア代表編】
ユーロ【1996】
1996 | ユーロ | 14 |
デル・ピエロのイタリア代表デビューは、1995年3月のユーロ予選エストニア戦です。
その後コンスタントにユーロ予選に選出され、ユーロ1996本戦のメンバー入りを果たします。
しかし、初戦のロシア戦で負傷し…この試合の前半のみの出場となっていますね。
チームとしてもグループリーグ敗退という結果に終わっています。
この大会での背番号は、とても珍しい気がする14番ですね。
デル・ピエロは出場していませんが、ドイツ戦のハイライトがこちら。
ワールドカップ【1998】
1998 | ワールドカップ | 10 |
続く1998年のフランスワールドカップでは、エースとして10番を付けて出場。
しかし負傷の影響もあり目立つ活躍を見せられず…途中出場したバッジョが主役となった大会ですね。
チームは準々決勝でフランスに敗れ敗退。
デル・ピエロとしても、エースにも関わらず見せ場が作れず批判される結果になりました。
ユーロ【2000】
2000 | ユーロ | 10 |
続くユーロ2000でもチームのエースとして10番を付けて出場。
全6試合に出場したものの…途中出場が多く、軸はトッティだった印象もありますね。
決勝では決定機を外したこともあり、フランスに敗戦し準優勝に。
この戦犯として母国では批判の対象となりましたね。
決勝のフランス戦のハイライトです。
https://youtu.be/NBmFcR5cFIM
ワールドカップ【2002】
2002 | ワールドカップ | 7 |
続く2002年の日韓ワールドカップでは、10番はトッティとなりデル・ピエロは7番を背負うことに。
チームの調子もあまり良くはなく…グループリーグ敗退の危機もあったものの…それを救うゴールを決めたのがデル・ピエロでした。
しかし決勝トーナメント1回戦の韓国戦では、不可解な判定に泣かされる形で敗退となりました。
ユーロ【2004】
2004 | ユーロ | 7 |
続くユーロ2004では、慣れない左サイドハーフでの起用が多い大会となりました。
それでも予選では不振のチームを引っ張り上げるゴールを決めるなど、かなりの活躍を見せていたように思います。
しかし本大会前に怪我をしたこともあってか、本大会では3試合全てに出場するものの…目立った活躍を見せたとは言えない状態。
チームも今一つな状態で、グループリーグ敗退となっています。
この大会でも背番号は7番を付けてプレーしていますよ。
予選ですが…得点を決めたフィンランド戦です。
ワールドカップ【2006】
2006 | ワールドカップ | 7 |
続く2006年のドイツワールドカップでもメンバー入り。
この大会はユヴェントスでも指導を受けたマルチェロ・リッピが監督ということもあり、スタメン出場こそ少なかったものの…チームの戦術としては重用された印象があります。
展開を変えられる切り札的な起用が多かったでしょうか。
7試合中5試合に出場し、1得点も記録してイタリアの優勝に貢献していますね。
どちらかと言うとではありますが、代表では7番の時の方が良いように思えた大会です。
この大会でも背番号は7番を付けてプレーしています。
ゴールを挙げたドイツ戦のハイライトです。
ユーロ【2008】
2008 | ユーロ | 7 |
続くユーロ2008では、予選の後半は招集されないなど…出場が危ぶまれた大会でした。
しかし本戦のメンバー入りを果たし、4試合中3試合に出場。
第2戦のルーマニア戦ではキャプテンマークも巻いています。
しかしこの招集は…このシーズン(2007-2008)での自身初めてのセリエA得点王に輝いたことが大きかったかもしれません。
大会を通して重用されたとは言い難く、控えの選手のうちの1人という立ち位置だったように思います。
この大会でも背番号は7番を付けてプレーしていますよ。
まとめ
ということで今回の記事のまとめです。
デル・ピエロの背番号をクラブと代表でそれぞれ紹介
10番が多いが、代表では7番が多い
ユヴェントスでの活躍はもはや言う事が無いレベルです。
しかしそれに比べると代表での輝きが物足りなかった印象があるのも事実。
怪我や戦術面で、代表にはあまり馴染めなかったのかもしれません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。