80年代90年代のドイツを代表する、ローター・マテウス。
ドイツ闘将の歴史の中の1人とも言えますね。
そんなマテウスの背番号を歴代で紹介します。
やはり10番のイメージが強い気もしますが、意外と色々な番号を付けていますよ。
【所属クラブ】
1979-1984 | ボルシアMG | 6等 |
1984-1988 | バイエルン・ミュンヘン | 8等 |
1988-1992 | インテル・ミラノ | 10等 |
1992-2000 | バイエルン・ミュンヘン | 10等 |
2000 | メトロスターズ | 10 |
【ドイツ代表】
1980 | ユーロ | 18 |
1982 | ワールドカップ | 18 |
1984 | ユーロ | 13 |
1986 | ワールドカップ | 8 |
1988 | ユーロ | 8 |
1990 | ワールドカップ | 10 |
1994 | ワールドカップ | 10 |
1998 | ワールドカップ | 8 |
1999 | コンフェデレーションズカップ | 10 |
2000 | ユーロ | 10 |
マテウスの背番号を歴代で紹介!【クラブ編】
ボルシアMG【1979-1984】
1979-1984 | ボルシアMG | 6等 |
マテウスはヘルツォーゲンアウラハというクラブのユース出身ですが、1979年にブンデス1部のボルシアMGからデビュー。
5シーズンに渡りプレーしています。
この頃は…というかマテウスの時代の大半は…背番号がまだ固定制ではありませんでした。
そのため、スタメンの11人に1~11までの数字を充てるという形をとっていましたよ。
1人の選手が試合ごとに違う番号を付けることもありますが、ある程度ポジションによって番号が決まっていたので、なんとなく同じ番号を付けるパターンが多かったですね。
ボルシアMG時代には6番を付けてプレーすることが多かったようです。
そんなボルシアMG時代のプレーをどうぞ。
バイエルン・ミュンヘン【1984-1988】
1984-1988 | バイエルン・ミュンヘン | 8等 |
1984-1985シーズンの前にバイエルン・ミュンヘンへ移籍。
4シーズンで3度のブンデス制覇を達成する強豪チームで、まさに守備の中心選手として活躍しています。
この頃も背番号はまだ固定されていませんでしたが、マテウスは8番を付けてプレーすることが多かったようです。
そんなバイエルン・ミュンヘン時代のプレー映像をどうぞ。(バイエルン復帰後も含まれていますが)
インテル・ミラノ【1988-1992】
1988-1992 | インテル・ミラノ | 10等 |
1988-1989シーズンを前に、イタリアのインテル・ミラノに移籍。
インテルではセントラルハーフとして起用されることが多く、得点力やチャンスメイク能力が開花しています。
インテル一瞬の輝き…なんて言われますが、1988-1989シーズンに8年ぶりのセリエA優勝を果たします。
ジョバンニ・トラパットーニ監督による、マテウスのコンバートも優勝の原動力になったことは間違いないでしょう。
しかし「つまらないサッカー」という批判のもと、トラパットーニ監督が解任され…インテルが低迷するのですが…それはまた別の話。
この頃のイタリア・セリエAも背番号は固定されておらず、試合ごとに番号を割り振る形式をとっていました。
しかしマテウスは10番を付けてのプレーが多かったですね。
インテル時代のプレー映像をどうぞ。
https://youtu.be/_JVTS5TRKa8
バイエルン・ミュンヘン【1992-2000】
1992-2000 | バイエルン・ミュンヘン | 10等 |
1992-1993シーズン前にバイエルン・ミュンヘンに復帰。
シーズン前の怪我のため序盤こそ治療に専念となりましたが、復帰後は見事に主力選手に返り咲いています。
そしてこの頃から3バックのセンター、当時のリベロにコンバート。
今では全く聞かなくなりましたが…当時はリベロを配置するチームも多かったんですよね。
バイエルンに復帰してから、途中の1995-1996シーズンより背番号固定制度が採用されます。
固定前から基本的には10番を使っていましたが、固定後は10番となっていますよ。
そんな第二期バイエルン時代、1996のUEFAカップのプレー動画をどうぞ。
メトロスターズ【2000】
2000 | メトロスターズ | 10 |
2000年にアメリカのニューヨーク・ニュージャージー・メトロスターズへ移籍。
1シーズンプレーし、2001年で引退しています。
ここでも背番号は10番ですね。
口論しているシーンですが…数少ないメトロスターズの映像です。
マテウスの背番号を歴代で紹介!【ドイツ代表編】
ユーロ【1980】
1980 | ユーロ | 18 |
ドイツ代表は1980年に代表デビュー。
デビュー試合がハッキリしていないのですが…ユーロ1980のオランダ戦がデビューのような気が。
ユーロ1980ではオランダ戦の1試合のみ、途中交代での出場となりましたが…19歳でメンバー入りを果たしています。
この時の背番号は18番です。
マテウスは出場していませんが、決勝戦のハイライトがコチラです。
ワールドカップ【1982】
1982 | ワールドカップ | 18 |
続くスペインワールドカップにもメンバー入り。
ここでもバックアップメンバーという立場で、7試合中途中出場2試合に留まっています。
チームは決勝でイタリアに破れて…惜しくも準優勝でしたね。
この時も背番号は18番でした。
途中出場したチリ戦ですが…ちょっと映ってなさそうです。
ユーロ【1984】
1984 | ユーロ | 13 |
続くユーロ1984ではレギュラーの座を掴んでいます。
チームはグループステージ敗退となりましたが、マテウスは3試合全てに出場していますね。
この大会では背番号は13番を付けてプレーしています。
プレー動画とは言えないですが…チラッと映る13番がマテウスです。
ワールドカップ【1986】
1986 | ワールドカップ | 8 |
続くメキシコワールドカップでも主力として活躍しています。
マラドーナの大会と言われたメキシコ大会ですが、決勝ではマテウスのマンマークによりマラドーナを封じ込めています。
しかし…残念ながらチームは敗戦し準優勝という結果になっていますね。
この大会では8番を付けてプレーしていますよ。
そんな決勝戦のハイライトです。
ユーロ【1988】
1988 | ユーロ | 8 |
続く地元開催のユーロ1988ではキャプテンとして出場。
全4試合にフル出場しますが、チームは準決勝でオランダに破れています(オランダが優勝)
この大会でも背番号は8番を付けてプレーしています。
ワールドカップ【1990】
1990 | ワールドカップ | 10 |
続くイタリアワールドカップが、マテウスのドイツ代表(この頃は西ドイツですが)のハイライトとも言える大会でしょうか?
キャプテンとして全7試合にフル出場し、自身も4ゴールを挙げて優勝に貢献しています。
特にグループステージ初戦のユーゴスラビア戦では2得点を挙げるほか、ストイコビッチの封じ込めに成功して勝利の立役者に。
ちなみに、この大会から背番号が10番に変更されています。
ワールドカップ【1994】
1994 | ワールドカップ | 10 |
続くユーロ1992は負傷により欠場。
1994年のアメリカワールドカップには5試合全てにキャプテンとして出場しました。
しかしこの大会では…怪我の影響か、あまり動きが良くなかったという意見が多いですね。
チームとしてもこの大会でダークホースとなったブルガリアに準々決勝で敗れています。
この大会でも背番号は10番でした。
ワールドカップ【1998】
1998 | ワールドカップ | 8 |
続くユーロ1996はユルゲン・クリンスマンとの確執もあり、代表を辞退。
辞退ともベルティ・フォクツ監督の構想外とも言われていますが…クリンスマンとの不仲が原因ではありますね。
そして1998年のフランスワールドカップでは、マティアス・ザマーが負傷したこともあり代表に復帰。
5試合中4試合に出場し5度のワールドカップ出場と、ワールドカップ最多出場となる25試合を記録しています。
この大会では再び8番に戻っていますね。
(10番は前回大会で8番を付けたヘスラーが背負いました)
コンフェデレーションズカップ【1999】
1999 | コンフェデレーションズカップ | 10 |
フランス大会後はコンスタントに代表に招集され、1999年のコンフェデレーションズカップにも出場しています。
チームはグループステージで敗退となりましたが、3試合全てに出場しています。
この大会でも背番号は10番でした。
ユーロ【2000】
2000 | ユーロ | 10 |
続くユーロ2000にも選出され、全3試合に出場。
激戦区となったグループAだったとはいえ…ルーマニアにも引き分けたことで最下位で敗退という結果になっています。
そしてこの大会を最後に、マテウスのドイツ代表は終了しています。
この大会でも背番号は10番でした。
まとめ
ということで今回の記事のまとめです。
マテウスの背番号をクラブと代表でそれぞれ紹介
10番が多く、他は8番が多い
松下電器との関りで、ガンバ大阪入りも噂があったんですけどね…結局日本で観ることは出来なかった選手です。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。