ロベカル(ロベルトカルロス)の背番号を歴代で紹介!クラブと代表で違う理由は?

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日本ではロベカルの愛称で親しまれている、ロベルト・カルロス選手。

既に引退から日がそれなりに経っていますが、今でも歴代最高の左サイドバックと言われていますよね。

それだけに現在でも非常に人気が高い選手です。

そんな彼の背番号と言ったら、やはり代名詞とも言える3番。

しかしブラジル代表では6番を付けていることが多かったような…?

果たして他の番号を付けていたことはあるのでしょうか?

今回はそんなロベカルの背番号を歴代で振り返ってみたいと思いますよ。

せっかくなので、クラブと代表の両方を紹介します。

【所属クラブ】

1991 ウニオン・サンジョアン
1992 アトレティコ・ミネイロ
1993-1995 パルメイラス
1995-1996 インテル・ミラノ 6
1996-2007 レアル・マドリード 3
2007-2010 フェネルバフチェ 3
2010-2011 コリンチャンス 6
2011-2012 アンジ・マハチカラ 3
2015 デリー・ディナモス 3

【ブラジル代表】

1993 コパ・アメリカ 6
1995 コパ・アメリカ 6
1997 コパ・アメリカ 6
1997 コンフェデレーションズカップ 6
1998 ワールドカップ 6
1999 コパ・アメリカ 6
2002 ワールドカップ 6
2006 ワールドカップ 6
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ロベルト・カルロスの背番号を歴代で紹介!【クラブ編】

サンジョアン、アトレティコ・ミネイロ、パルメイラス【1991-1995】

1991 ウニオン・サンジョアン
1992 アトレティコ・ミネイロ
1993-1995 パルメイラス

地元のクラブであるウニオン・サンジョアンというチームで、1991年にキャリアをスタート。

ブラジルは欧州と違い、1月開幕の12月閉幕ですので1991シーズンという形になります。

1992シーズンにはアトレティコ・ミネイロにレンタル移籍。

1993年に国内の名門であるパルメイラスに移籍しました。

強豪パルメイラスで一気に頭角を現し、1993年と1994年のブラジル全国選手権を連覇しています。

当時のブラジルは背番号が固定されておらず、いわゆるスタメンの選手にポジションごとに1~11を割り振っていた形。

この頃から既に左サイドバックとしてプレーしていましたので、スタメン出場時は6番が多かったようです。

ここで「?」と思った方は鋭い!かも。

この謎は代表の背番号のところで改めて紹介しますので、読み進めて下さいね。

貴重なサンジョアンEC時代と、SEパルメイラス時代の映像がコチラ。

インテル・ミラノ【1995-1996】

1995-1996 インテル・ミラノ 6

パルメイラスでの大活躍により、1995-1996シーズン開幕前にセリエAのインテル・ミラノへ移籍。

これまた彼の代名詞とも言える、強烈なフリーキックを叩き込んだりと好スタートを切るものの…今一つイタリアサッカーに馴染めなかったですね。

ちなみに、当時のインテルの監督であったロイ・ホジソン左ウィングで起用したかったと言われています。

しかしロベルト・カルロスは左サイドバックでのプレーを希望。

この辺りもイタリアサッカーに馴染めなかった理由かもしれません。

インテル・ミラノ時代の背番号は6番でした。

セリエAはこのシーズン(だったかな?)より、背番号を固定制に変更。

シーズンを通して6番を付けてプレーしています。

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レアル・マドリード【1996-2007】

1996-2007 レアル・マドリード 3

セリエAに馴染めなかったこともあり、わずか1シーズンでインテルを退団。

当時のレアルの監督であるファビオ・カペッロが熱心に説得して、それにより移籍が実現した…と言われています。

守備を重視するイタリアサッカーで、超攻撃的なサイドバックであるロベルト・カルロス選手が馴染めなかったのは理解の範疇。

しかし攻撃的なスペインサッカーとは言っても、監督のファビオ・カペッロはイタリア人であり守備重視の監督として有名…。

そんなカペッロが熱望して獲得だなんて、この辺りも非常に面白い話ですね。

リーガ・エスパニョーラは非常に相性が良かったようで、実に11シーズンという長きに渡り在籍することに。

レアル・マドリード移籍に伴い、背番号を3に変更。

以降全てのシーズンを通して3番を付けてプレーしています。

ちなみに前1995-1996シーズンに3番を付けていたのはキケ・サンチェス・フローレス。

ロベカル加入と同時にレアル・サラゴサへ移籍したため空き番となりました。

そして当時のレアル・マドリードの6番は、フェルナンド・レドンド選手が付けていましたね。

フェネルバフチェ【2007-2010】

2007-2010 フェネルバフチェ 3

長らくレアル・マドリードで主力として活躍し、比較的手薄となりがちなサイドバックだけに代えの効かない選手でした。

しかし年齢も34歳となり、次のサイドバック確保が急務となっていたレアルはマルセロガブリエル・エインセロイストン・ドレンテなどを補強。

それもあり、2007-2008シーズン開幕前にトルコのフェネルバフチェへ移籍しています。

この移籍には、年齢による衰えや左サイドバックのポジション争いなどもあったとは思いますが…それよりも、フェネルバフチェの監督ジーコだったというのが大きいようです。

フェネルバフチェでもレアル時代同様に、3番を付けてプレーしています。

ちなみに前2006-2007シーズンに3番を付けていたのは、ウルグアイ人CBのディエゴ・ルガーノ。

ロベカル加入に伴い、2007-2008シーズンは背番号を2番に変更しました。

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コリンチャンス【2010-2011】

2010-2011 コリンチャンス 6

2010年1月に母国ブラジルのコリンチャンスへ移籍。

ちなみにこの時は、同じくレアル・マドリードで共にプレーしたロナウドとチームメイトになることで日本でも話題になりましたね。

コリンチャンスでは2010年シーズンの1シーズンをプレー。

背番号は6番に戻しています。

ちなみに2009年シーズンに6番を付けていたのはクリスチアンという選手ですが、シーズン途中にフェネルバフチェへ移籍。

(そのためフェネルバフチェでロベカルと半年ほど一緒にプレー)

加入時には6番は空き番だったと思われます。

アンジ・マハチカラ【2011-2012】

2011-2012 アンジ・マハチカラ 3

2011年2月にロシアのアンジ・マハチカラに移籍。

ロシアは3月開幕の7月閉幕というスケジュールですので、2011シーズンと2012年シーズンの2シーズン在籍という形に。

ここでは左サイドバックの他、守備的MFでもプレーしていますね。

年齢的なことや経験豊富さを買われ、途中からはキャプテンも務めています。

更にはシーズン途中の監督解任に伴い、選手兼任コーチに就任。

これが後の監督業へと続くことになったのでしょう。

アンジ・マハチカラでも3番を付けてプレーしています。

ちなみに加入前の2010年シーズンに3番を付けていたのはラトビア代表CBのオスカルス・クラヴァ。

ロベカル加入に伴い、2011年シーズンには83番に変更しています。

デリー・ディナモス【2015】

2015 デリー・ディナモス 3

2012年にロシアのアンジ・マハチカラで現役を引退し、2013年6月よりトルコのスィヴァススポルの監督に就任。

2015年1月には同じくトルコのアクヒサル・ベレディイエスポルの監督に就任。

そして2015年7月にインドのデリー・ディナモスFCの監督に就任しました。

デリー・ディナモスの監督に就任する際、選手兼任監督として現役復帰!

ここでも背番号は3番を付けてのプレーとなっています。

ちなみに前2014-2015シーズンの3番はStijn Houbenというオランダ人選手なのですが、シーズン途中に移籍していますので空き番だったと思われます。

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ロベカルの背番号を歴代で紹介!【ブラジル代表編】

代表に関しては、親善試合などが追いきれないので…主要大会の背番号を紹介します。

A代表に初選出となったのは1992年の親善試合です。

1996年のアトランタオリンピックにも、ブラジル五輪代表として出場しています。

ちなみにこの大会と言えば…マイアミの奇跡。

この試合にも出場していましたよ。

数多くの大会に選出されていますが、一貫して背番号は6番を付けています。

クラブでの背番号の遍歴を追いましたが、ブラジル時代は6番を付け、レアル移籍から3番。

そしてコリンチャンス時代には6番と…これは恐らく本人の左サイドバックへの強いこだわりかと思います。

スペインを始め、欧州では多くの国が左サイドバックは3番となっていました。

しかし、ブラジルでは左サイドバックと言ったら6番なんです。

これは1920年代くらいまで遡り、当時後ろから(GKから)順に1~11まで割り振っていたことに由来。

欧州(と言っても国によって多少の違いはあります)と南米では、フォーメーションの変化が異なったのが原因ですね。

欧州ではハーフバックと言われた今で言うMFがフルバックの位置に降りてきたために、5番と6番がCBに。

元々フルバックだった2番と3番は外に開き、右サイドバックと左サイドバックになりました。

ブラジルではハーフバックがフルバックを挟むように降りたために、4番と元々の3番がCBに。

6番が左サイドバックに降りて、元々の2番が右サイドバックとなりました。

つまり左サイドバックに強いこだわりを持つロベルト・カルロス選手は、ブラジルに関わるチームでは6番を付け、欧州では3番を付けたということに。

インテルは…恐らく初の欧州だったために「左SB=6番」という認識のまま背番号を選んだのかと思われます。

レアル時代のところでちょっと触れましたが、レアルでは既にフェルナンド・レドンドが6番を付けていたというのも関係があるかもしれませんね。

スペインではレドンドのように、守備的なディフェンシブハーフが6番を付けることが多いです。

コパ・アメリカ【1993】

1993 コパ・アメリカ 6

1992年に親善試合でA代表デビュー後、初となる主要大会がコパ・アメリカ1993です。

チームは準々決勝で敗退となりましたが、ロベルト・カルロスは4試合全てにフル出場しています。

背番号は左サイドバックの番号である6番です。

コパ・アメリカ【1995】

1995 コパ・アメリカ 6

続くワールドカップ1994には残念ながら招集されず。

この大会では左サイドバックはレオナルド(鹿島アントラーズにいたレオナルドです)とブランコが務めました。

6番はブランコが付けていましたね。

その後のコパ・アメリカ1995に招集され、6試合全てに出場。

チームは決勝でウルグアイに敗れて惜しくも準優勝となっています。

この大会でも背番号は6番です。

コパ・アメリカ【1997】

1997 コパ・アメリカ 6

続くコパ・アメリカ1997もメンバー入り、6試合中5試合に出場し優勝に貢献しています。

この大会でも背番号は6番ですね。

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コンフェデレーションズカップ【1997】

1997 コンフェデレーションズカップ 6

続くコンフェデレーションズカップ1997にも招集。

初戦を除いて4試合に出場し、ブラジル代表の優勝に貢献しています。

この大会でも背番号は6番です。

ワールドカップ【1998】

1998 ワールドカップ 6

続くワールドカップ1998が、ロベカルにとって初のワールドカップに。

7試合全てに出場し、決勝でフランスに敗れたものの…チームの準優勝に大きな貢献を果たしています。

この大会でももちろん背番号は6番です。

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コパ・アメリカ【1999】

1999 コパ・アメリカ 6

続くコパ・アメリカ1999も6試合全てに出場し、優勝に貢献しています。

この大会でも背番号は6番ですね。

ワールドカップ【2002】

2002 ワールドカップ 6

続くコンフェデレーションズカップ1999は招集されず、この大会ではセルジーニョが6番を付けて左サイドバックでプレー。

その後のコンフェデレーションズカップ2001も招集されず、この大会ではグスタヴォ・ネリーという選手が6番を付けています。

比較的この2大会はメンバーを落としていたような印象ですね。

更にはコパ・アメリカ2001も招集されず、この大会ではホージェル(ヴィッセル神戸でプレーした選手です)が6番を付けました。

続くワールドカップ2002では7試合中6試合に出場し、ブラジル代表の優勝に貢献。

自身もグループステージで1ゴールを記録していますね。

この大会でも背番号は6番です。

ワールドカップ【2006】

2006 ワールドカップ 6

続くコンフェデレーションズカップ2003、コパ・アメリカ2004、コンフェデレーションズカップ2005は招集外となっています。

6番はジウベルト、グスタヴォ・ネリー、ジウベルトとなっていますよ。

その後のワールドカップ2006では5試合中4試合に出場。

日本のファンとしては…日本戦で出番が無かったのが寂しいところでしたね。

この大会でも背番号は6番です。

準々決勝でフランスに敗れたのを最後に代表を引退。

2010年のコリンチャンス時代に、ワールドカップ2010への出場希望を語っていましたが…フランス戦を最後に代表には選出されませんでした。

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まとめ

ということで今回の記事のまとめです。

ロベルト・カルロスの背番号をクラブと代表別にまとめ

3番のイメージが強いが、ブラジル関係では6番

一貫してこだわりの番号を使い続けた選手ですね。

そのため、リーグ戦やクラブ関係の大会を主に観る方は3番のイメージが強いでしょう。

逆にワールドカップとか、国の代表戦を観る機会が多かった方は6番のイメージでしょうか。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

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